戦争(せんそう)直後(ちょくご)の船橋(ふなばし)

太平洋戦争(たいへいようせんそう)1945年(ねん) 8月(がつ)15日(にち)、日本(にほん) の降伏(こうふく)で終(お) わりました。日本各地(にほんかくち)の戦争(せんそう)の被害(ひがい) ・後遺症(こういしょう)は深刻(しんこく)で、食糧難(しょくりょうなん)が続(つづ)きました。

さいわい船橋(ふなばし)は あまり 戦災(せんさい)に あわなかったので、ほか の ちいき から たくさんの 人(ひと)が うつって きました。1945年(ねん)の秋(あき)には、人口(じんこう)が約(やく) 6.8万人(まんにん)に ふえました(船橋(ふなばし)が市(し) になった1937年(ねん)の人口(じんこう)が約(やく) 4.3万人(まんにん) でした。そして、農産物(のうさんぶつ)・海産物(かいさんぶつ)の あつまる ところとして船橋(ふなばし)は、大変(たいへん)な にぎわい を みせました。


1937(昭和12)年市制施行当時の国鉄船橋駅

それでも そのころの ようすは、いまの 船橋(ふなばし)とは たいへん ちがっていました。

そのころ、国道(こくどう)14号線(ごうせん)の みなみがわ の おおくは 遠浅(とおあさ)の かいがん でした。

(なつ)、人々(ひとびと)はよく潮干狩(しおひが)りに でかけたものです。あさり、はまぐりなどの かい だけでなく、はぜ、かれいなどの魚(さかな) や、わたり蟹(かに)もたくさん とれました。ちかく の かわ や うみべで、こどもたちが  いと に ミミズを つけて 水中(すいちゅう) に ほおりこむと、うなぎ や どじょう、はぜが かんたん に とれました。さかなたち も 食糧難(しょくりょうなん)だったのでしょうか? ただし海老川(えびがわ)の河口(かこう) の ぶぶんは「みお」といって ふかい みぞがあり、船道(ふなみち)になっていました。この かいがん も うめたてと 工業化(こうぎょうか)が すすみ、いまでは うみが とても とおくなりました。