−船橋市(ふなばしし) が誕生(たんじょう) したのは− 

 

船橋(ふなばし)が市(し) になったのは、1937年(ねん) 4月(がつ) 1日(ついたち)でした。千葉県(ちばけん)では千葉市(ちばし) 、銚子市(ちょうしし) 、市川市(いちかわし) につぐ4ばんめ の市です。そのときの面積(めんせき)は現在(げんざい)の半分弱(はんぶんじゃく)の約(やく)40ku、人口(じんこう)は約 4.3万人(まんにん)(現在:約54.8万人)でした。

1953年(ねん)に となりの二宮町(にのみやちょう)【現在(げんざい)の飯山満(はさま)、前原(まいはら)、薬円台(やくえんだい)、三山(みやま)、田喜野井(たきのい)】が、1954年(ねん)には豊富村(とよとみむら)【現在(げんざい)の坪井(つぼい)、古和釜(こわがま)、大穴(おおあな)、豊富(とよとみ)、小室(こむろ) など】が加(くわ)えられ、現在(げんざい)の広(ひろ)さ(85.64ku)になりました。 

−戦時中(せんじちゅう)の船橋(ふなばし) 

船橋市(ふなばしし) が誕生(たんじょう) してから まもなく、日中戦争(にっちゅうせんそう)が おこり、1941年(ねん)12月(がつ) 8日(ようか) 太平洋戦争(たいへいようせんそう)に突入(とつにゅう) しました。その前後(ぜんご)、船橋市(ふなばしし) には軍需工場(ぐんじゅこうじょう) が進出(しんしゅつ) し、東京(とうきょう) からの疎開者(そかいしゃ) とあわせて急(きゅう) に人口(じんこう)がふえました。1944年以降(いこう)、東京(とうきょう) と周辺都市(しゅうへんとし) は大規模(だいきぼ)な空襲(くうしゅう) をうけましたが、船橋市(ふなばしし) の被害(ひがい) は軽(かる)く、当時(とうじ) の中心街(ちゅうしんがい) は、ほとんど被害(ひがい) をうけませんでした。

 
−タガのゆるみ/タガがゆるむ− 

(おけ)のまわりに はめる、竹(たけ)や籐(とう)の輪(わ) のことを「タガ」といいます。ながいあいだ つかわずに放(ほう)っておくと、このタガが乾燥(かんそう)しゆるんでしまい、桶(おけ)がつかえなくなります。これを「タガのゆるみ」と いいます。

このことから、年(とし)をとって能力(のうりょく) が おとろえることを「タガがゆるむ」ということがあります。

(とし)をとると、だんだん自分(じぶん) に あまくなって、やるべきことを やらないでいることがあります。その つみかさね が「ぼけ」につながっていきます。

さいきん、不祥事(ふしょうじ) のニュ−スがたくさん 報道(ほうどう)されています。 だれでも だめな ところがあって、欲(よく)もあり、誘惑(ゆうわく)に弱(よわ)いものです。それだけに、人(ひと)を指導(しどう)・取(と)りしまりをする立場(たちば) の人(ひと)たちは、筋(すじ)を通(とお)して、きちんと すべきです。どう見(み)ても「タガがゆるんだ」としか いいようが ないのです。

(ひと)も制度(せいど)も古(ふる)くなったり あいまいのまま放(ほう)っておくと「タガがゆるみ」ます。たえず自分(じぶん) の行動(こうどう)を反省(はんせい)したり見直(みなお) して、「タガ」をしっかりさせておくことが大事(だいじ) です。