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16冊のパスポート : 目次

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はじめに

1.

我が青春の東パキスタン(フェンチュガンジ)

2.

我が青春の東パキスタン(ダッカ

3.

米国ニューヨーク駐在一年生

4.

ニューヨークの自動車免許筆記試験は何語?

5.

アメリカ民族という民族は無いのだが
6. ニューヨークの「オ−ソレミヨ」
7. アメリカの浪花節
8.

ナイジェリアへの渡航回数ついに30回以上

9.

バグダッドの女学生

10.

「望郷」のアルジェリア
11. ほろ苦い清涼剤の南米エクアドル
12. 静謐なビルマ(現ミヤンマー)
13. 忘れ得ぬ人々―ブルガリア (完)

小柳和郎

今から18年前ごろ日本の代表的商社I社のY部長と神戸製鋼Hプロジェクト・マネジャーの3人で冷戦明けやらぬ時代の東側共産ブルガリアの首都ソフィアに行った。厳寒の季節であった。


正装したブルガリアの少年少女

出張目的は神戸製鋼が同国ラドミールで建設した大型鋳鍛鋼プラントの引渡し時のクレーム処理の為である。主要なクレームは、操業に必要で当社に供給責任が有る米国製DECコンピューターに絡む問題であった。

米国国防省の許可が土壇場になって下りない事になり、当社が納入不能に陥ったのである。プラント契約上、当然補償責任が生じ金額が問題となった。機械の一部の不具合、多額の供給予備品の範囲等々も俎上に上がった。

プラント引渡し時には、相手にも依るが一般に建設中に積もった大小のクレームの難儀な交渉はどうしても付きものである。決着してプラント「引渡し」のお墨付きを貰わないと代金決済が始まらないのである。我々納入者側としては大問題である。

一方契約上は客先側の商業運転開始は「引渡し」が条件となっており「引渡し」が遅れると商業運転が始められず客先側も困る筈である。でも実際にはプラントが事実上完成していたら契約上許されている試運転が始まっている。

だから基本的にプラントの性能が良ければ実はこの間も実質上製品は生産されており客先はこれを販売出来る。要は客先は契約上の「引渡し」を余り急ぐ必要が無いのである。依って交渉は大体に於いて我々納入者側の方の立場が弱い。

此のブルガリアでの客先は工業省傘下の産業開発公社であり、交渉相手は名うての強硬交渉者のR総裁や、彼の部下のG副総裁等であった。

主張は夫々互いに理屈があり矢張りハードな交渉が展開した。先方はブルガリア語、こちらは英語、そして通訳は先方手配の女性であった。彼女はまだ若く控え目な感じで愛くるしく、好感が持てた。

交渉は互いに譲り難い核心に来ると激しい議論になった。勢い声高になって行った。此処まで沸騰して来ると、可愛いそうに通訳の女性もスッカリ感情移入が始まってしまった。

内心どちら側に気持が傾いたのか判らないが顔を紅潮させながらも必死に激論について来て翻訳に努めていた。然し興奮の余り顔は紅潮し、黒い瞳を潤ませながら、連られて本人の声まで大きくなって来た。

交渉は丸一日掛けても終わらず、翌日も交渉が続いた。私は難交渉になると足元を見透かされないように、帰国は焦らないことを常としていた。

交渉中も私は朝は早起きし、ホテルからジョギングに出た。ホテル外壁の大きな寒暖計を見ると氷点下7度。雪山のビトーシャ山が眼前に聳え立っていた。静寂な林の中の小道をキシキシと雪を踏みしめながら走った。

ホテルの朝食は何か素朴で質素な感じだが悪くはなかった。蜂蜜とバターをたっぷり塗って食べると黒いパンは旨かった。

後で聞いた話だと当時のブルガリアでは蜂蜜はまだ貴重品で、外貨を使ってくれるホテル宿泊客にしか出さず、土地の人には中々手に入らないということであった。蜂蜜をテーブルに運んでくれたウェイトレスには申し訳無かった。

二日目以降の交渉では実質的にはG氏(後に工業相次官となる)が先方の実務交渉トップであった。中々苦みばしった男前の中年で、フェアな感じであり好感が持てた。逐次R総裁に状況報告をしていたようだ。

交渉の最大の山場に来た時、当方はギリギリの最終解決案を提案し勝負に出た。その際私はうっかりと『最早Take it or leave it ! 』(注:好かったら受け入れよ、嫌だったら勝手にしろ。)と切り出したところ、静かで落ち着いていた感じのG氏は急に真っ赤になって『こんな侮辱的で最後通牒的な発言を受けたのは始めてだ。』、と怒り出した。舌下問題になりかねなかった。

冷静で頭の回転の早いY部長にも助けられ漸く決着を見た。明けて翌日が日曜日。空が晴れ渡り外界は銀世界で眩しかった。G氏と部下の人達が我々に対するもてなしとしてビトーシャ山の中腹までミニバスで案内してくれた。


ブルガリアはバラで作った香水の名産国です。バラの収穫風景。

寒かったが途中で山小屋に入った。予め用意されていたのか暖炉のお蔭で中は暖かかった。チーズその他色々と具の入ったスープのよう温かい料理をご馳走になりスッカリ人心地がついた。好意が嬉しかった。やがて下山する頃は日没となり街にはもう灯が燈って行った。

レストランで夕食までご馳走になってしまった。レストランには舞台が有って民族衣装の男女達が楽団の演奏に合わせてコザック舞踊に似たダンスを演じていた。我々はすっかり恐縮し、昼夜のご馳走攻めでお腹も満腹状態になった。

さてお開きになり、後はホテルに連れて帰って貰うばかりとなった。と、思いきや、G氏より、『学校の先生(教授)をしているワイフが昨夜より一生懸命にケーキを作って待っているので是非自宅に来て下さい。』との誘い出た。

お腹は既にパンパンで、一瞬これは参ったなと思った。然し、温かい好意をとても断る訳にはいかないと観念した。お宅にお邪魔して、キチンと整理の行き届いた温かい部屋に落ち着くと、やがてケーキが出てきた。既に覚悟は出来ていたので、この時ばかりはお腹がはち切れても構わないとばかり、大きなケーキを必死になって有り難くご馳走になった。

因みに、ブルガリアは14世紀末より400年以上オスマン帝国の支配下にあった。塩野七生の本に依れば、ブルガリアの少年達はオスマン軍により、やがて死を恐れぬ勇猛果敢な兵士イエニチェリに鍛え上げられて行った。激しい1453年のコンスタンチノーブル攻城の際も最前衛となって突撃し散って行った。

19世紀末になってオスマン帝国がロシアとの戦いに敗れ、それに伴ってブルガリアは独立した。然し、其の後、ロシア、そして20世紀中頃ソ連の支配下に置かれた時代も有った。下って2004年にはNATOそして2007年にはEU加盟を果たした。

厳しい冬と、厳しい歴史に鍛えられて来たが民族の温かい人情は失われず、むしろ醸成されていったように感じた。

(完)

とがき

これにて本年1月よりお付き合い頂いたエッセイも終りです。

長い間ご愛読下さり誠に有難うございました。この間、温かい励ましの投稿を色々と頂戴し感謝しています。

いざお別れするとなると何か名残り惜しい気が致しますが、お蔭さまで何かホッと人生の一区切りが着いたような感慨ももようします。

なお、ウェブマスターにも大変お世話になりました。多謝。

皆様のご健康、ご多幸を心から祈念しています。