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最初にアルジェリアに入ったのは20数年前。
正確に確かめようとして過去の沢山の手帳を取り出したが、敢えて処分してしまったものもある。

またパスポートを調べてもアルジェリア、モロッコ、カメルーン、ザイール、等々の旧フランス植民地は入出国スタンプは皆フランス語なので私には読めず諦めた。追って当時の仲間にでも訊いてみよう。

首都アルジェの街は紺碧の地中海を眼下に望む傾斜地に広がっている。

最初の朝もホテルで早く起床しジョッギングに出た。間も無く幅広い立派な石段が現れて来る。階段は踊り場には洒落た手摺りも付いていてテラス風である。フランス風である。植民地時代の産物であろう。

其処を駆け下りて行くとやがて海岸に出る。カスバも近くの傾斜地に狭く段々状に出来ている。両側は色々な店がギッチリと混み合っており、階段の幅が狭いので、薄暗い。迷路の感を呈している。

日本の若い人はもう知らないだろうが名優ペペルモコ主演の往年のフランス名画「望郷」はアルジェが舞台であった。

少なくとも私が出張で行った1980年代の中頃は、其の映画で有名になったホテル・アレッティは未だ健在で残っていた。海岸を見下ろすように立っている。もっともエルサフィールというアラビヤ語名に変わってはいたが。

フランスの植民地当時、アルジェ在住のフランス人は海岸に立つと、さぞかし遥か彼方の母国を想いペペルモコのように「望郷」の念に駆られたことだろう。

フランスの画家は題材としてアルジェの女性に魅せられていたのだろうか。1834年にドラクロワは官能的で然し気高い雰囲気でハーレムの女性を深い色調で描いた。

続いてルノワール更にマティスもアルジェの女性を描いた。

イスラム教徒の女性は人前には出ず、ましてや描かれることを(はばか)っていたのに。彼らはよく了解を取れたものだ。

陽光に包まれる北アフリカのアルジェリアは世界第2次大戦後、独立機運が漲り宗主国の

フランスに対し壮絶な解放の戦いを挑んだ。正に、有名なドキュメンタリー映画にもなった「アルジェの戦い」だ。遂に1962年ドゴールが独立を承認した。

然しアルジェリアは独立の尊厳を勝ち得たものの現実は厳しかった。

インフラが人口増加に追いつかず、私が世話になった日本商社M社の駐在事務所長Wさん(後に役員)の家庭でもお子さんが通う小学校は手狭になり午前、午後の交代制であった。

私が宿泊していたホテルは一応新しいホテルではあったが、風呂場の浴槽やシャワーの湯は出たり出なかったり。丘の上のブドウ畑も荒れた感じであった。

我々出張者はLPGプラントの受注事前活動をしていた。Wさんと我々出張者はプラントサイト視察の為に一台の車に乗った。運転者は現地人運転手。アトラス山脈を越えて南下し、サハラ砂漠の中を数時間走った。やがてオアシスの町のガルダイヤに到着した。

一泊したホテルで私は翌朝早起きしてプールで泳いだ。水が冷たいのには驚いた。

プールから上がってジョッギングをしたが、乾燥した砂道を走っていると何処からか顔の当たりにハエが飛んで来た。執拗に顔に止まろうとして離れない。手で払っても、払っても。此の辺りのハエは人間の顔の皮膚の僅かな湿気も逃がさんとばかりに。

皆でプラント予定地を視察した。周囲はいずこも砂漠で地平線まで遮るものは何も無かった。プラントを受注したら、やがて日本より建設部隊が派遣されて来る。東方の地平線の気の遠くなるような遥か彼方に母国日本が在る訳だ。

ペペルモコの「望郷」と比べたら、此の砂漠の中では海も緑も無い。建設部隊のことを思うと何か申し訳無いという気持が中々消えなかった。

1960年代に血と汗を流してフランスより独立を克ち得た若きアルジェの闘士達も其の後歳月の流れには克てず歴史の舞台より大方消えて行った。

アルジェリアは世界有数の天然ガス埋蔵国であり、其の開発も進んで行ったが、貧富の差に国民は政治に不満を持つようになった。政府と反体制派の間で凄惨な闘争も繰り広げられる至り、外国人もトバッチリを受けた。

政府は1991年に選挙を実施したが、イスラム勢力が圧勝したので選挙を無効とした。両者対立の緊張状態のバランスの中で沈静が保たれているようだ。此の国のかたちも移ろい続けており、映画「望郷」が醸し出した甘く香るノスタルジアも益々夢の彼方へ消えて行く。

因みにその後当社とM社はプラント受注に成功し、そして建設部隊は(つつが)無く建設の偉業を達成したことを書き添えて置きたい。