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ライオン狩りの絵
イラク北東部の紀元前アッシリアの首都ニムルドで発掘された遺跡
帝王ライオン狩りの石造レリーフ美術品
紀元前875年〜860年
大英博物館

私が最初にイラクに出掛けたのは確か197911月頃だったと思う。1979年と言えば、中東では在イラン米国大使館の占拠事件が発生したり、アジアならマザー・テレサがノーベル平和賞を受賞した年である

メソポタミア文明は紀元前6000年頃チグリス川とユーフラテス川の間の肥沃な地帯に発祥したと伝えられ、其の領域はほぼ今日のイラクに当る。シュメール人都市国家、アッカド人に依る征服、バビロン王国等々転変を経てからずっと下って、9世紀になるとイスラム教のアッバス王朝はアラビアよりバグダッドに遷都した。

平安時代、日本人は世界を「唐天竺」と表現し、唐の長安を世界一の都と思っていた。然し実は其の頃、遥か西の方では、アッバス王朝の都バグダッドが長安を凌いで世界に比類なき100万人都市として栄えていた。

此の都は栄華を極め、我々日本人にも馴染みが有る「千夜一夜物語」も作られた。然し此の永く続いたアッバス王朝もやがてモンゴル軍により崩壊する。元寇が日本を襲う少し前の1258年の事である。

さて私が会社の仲間と共にイラクに初出張した1979年当時は、既に其の10年前頃クーデターで王政が滅びバース党に依る一党独裁の圧政下に在った。丁度例のフセインが前任者を継いで大統領に就任して間も無い頃であった。

出張目的はフランスがバスラで建設中の製鉄プラント第一期工事に次ぐ第二期拡張工事の現地調査であった。我々はやがて具体化すると睨んでいた拡張工事の受注を意図していたのである。

さてバグダットに到着してホテルにチェックインした。ホテルは何の飾り気も無く殺風景であった。我々は夕食を済ませてから、寝るのには一寸早いので散策に出掛けた。確か「アリババと40人の盗賊」の像がロータリーに有る広場だったと思うが、直ぐ其の近くに思い掛けなくもナイトクラブが有った。

エッ!中東なのに!何か場違いの感じだ。ごつい木製の入り口ドアは安っぽいネオンで枠が飾られていた。入場料を払って中に一歩入ると、中はかなり広く、客で混雑してムンムンとしていた。紫煙濛々(もうもう)の奥の舞台では女性が大胆なベリーダンスを踊っていたように思う。ビールも安く飲めた。

何か外国人だけが入場を許されていたと記憶している。飲酒等に厳しいサウジとかクエート等の周辺国と比べると大分違うなと少々驚いた。イラクは豊富な石油収入が入って来るので、外貨獲得目的としたら此の様な遊興施設は要らない筈だが。開明のジェスチャーか?はたまた別目的か?

翌朝、ホテルで部屋の掃除に来たのはアラブ世界では珍しく女性であった。イスラム教徒ではないのであろう。顔も隠していなく薄地のワンピース姿の大柄の中年であった。髪は黒く豊かであった。手はベッドメイキングの為に休めてはいなかったが笑みを含んだように見える目は絶えずこちらを見ていた。何か好意的な感じでこれ又場違いな感じがした。

パンとコーヒーだけの朝食を終えてから先ず市内に在る客先の工業省に出向いた。然し日本出発前にアポイントを取っていたのに担当官に会えなかった。どうも第一期工事の工程が遅れており、その責任問題でとても我々に会える状況ではなかったらしい。

我々は日本商社、JETRO, 銀行等々で現地情勢をヒアリングして勉強した。そして其の後、プラント建設予定地の視察のため南端のバスラに行くべく、バグダット空港に向った。空港に着いて出発ロビーで暫く時間待ちをすることになった。私は時間潰しにイラクの地図をテーブルに広げて眺めていた。

すると仲間の日本商社M社の駐在員が気付いて慌てて地図は仕舞った方がよいと私に警告してくれた。スパイ活動と誤解されると酷い目に遭うからと。成る程、これは昨夜のナイトクラブやそして今朝のホテル掃除のおばさんの甘い感じと現実とでは大分違うなと一気に緊張感が引き戻された。

バスラは回教のシーア派教徒の多い処だ。車で街中を暫く走るとやがて殺風景な土漠が広がり始めた。遠い先にペルシャ湾が光っていた。此処ら当たりがプラント予定地とか。我々は車から下りた。

実は此の年は、一年中で一番暑い時期と断食月のラマダンが重なりバスラは特に暑かった。喉が渇いたが、水筒の水を飲もうにも運転手は回教徒なので彼の前では憚れた。外気は42〜43度位は有ったであろう。車のボデイに触れると火傷しそうだ。

遠景にナツメ椰子が並んでいた。それ以外に視界に入るものとして小屋がずらり並んでいた。此れ等は第一期建設工事のフランス人宿舎だとか。花の都のパリとは落差が大きい。そう言えば紀元前に遠征中のアレキサンダー大王が客死したのは此処バスラであった。最期に異国の空の下で、さぞかし母国マケドニアの緑とエーゲ海を懐かしんだことであろう。

此の頃の2〜3年、港町バスラは浚渫工事、港湾工事が次々に実施されて来ているが日本の専門業者のG建設が強く、連戦連勝で受注して行った。工事中、日射病で倒れる者が多くて困ったが色々と工夫しても駄目だったらしい。

試行錯誤の結果、結局判ったのは戦時中日本軍の兵隊が南方作戦でやっていたように帽子の後ろから手拭いかタオルを垂らすという簡単な方法がベストであったとか。

若し我々がやがて第二期工事を受注したらプラント建設で大勢の建設部隊が日本から送られて来る訳だが、茫漠とした建設地が夏は灼熱の地と化すのかと思うと心配になった。でもフランス人だって来ているじゃないかと自分に言い聞かせたが、スッキリ出来なかった。

でもいずれにせよ此の心配は杞憂に終わった。と、言うのは此の翌年の19809月にイラン・イラク戦争が勃発したので計画自体が宙に浮いてしまったからである。この戦争は其の後8年近くも続くことになる。


巨大な門
北イラクの都市遺跡
1世紀頃、ローマ軍の度る攻撃を受けた時には
閉ざして守っている

私は戦争がまだ始まる前のことだが、2〜3人の少人数でもう一度イラクに戻って来た。バグダッドでは早朝ジョッギングに出掛けた。ゆったりと流れるチグリス川の堰堤を走った。対岸はナツメ椰子が縁取っていた。こちらの岸では川沿いに家庭菜園のような小さな花畑が幾つも並んでいた。

走っていると先方から鞄を下げた女学生3人位が連れ添って歩いて来た。如何にもあどけなくて明るい少女達であった。すると擦れ違った時に皆がにっこりと愛想好く手を振ってくれた。こちらも慌てて手を振って返礼した。

心和む思いで更に走り続けていたら、予め頭に入れていた地図によると大統領官邸の前に出たようだ。

此の官邸の門のずっと奥深くに立派な建物が聳えていた。門には衛兵が立っていた。愛想が好いのか先ほどの女学生のように衛兵もこちらに向って手を振ってくれた。

と、思ったら此れは大間違いで、ウロウしないで早く立ち去れと警告しているのだと判った。

 

後で日本の商社の人に笑い話として此のことを話したら、彼は真剣な面持ちになり、怪しい人間と間違われると大変な事になりますよ、だから其処には決して二度と行かないようにと(たしな)められた。

此の頃、イラクでは新しい法令が出て、ビジネスでの贈収賄は死刑という厳罰が課せられるようになった。現に見せしめに既に或る欧州人が処刑されたという噂を聞いた。

 

現政権の狙いとしては綱紀粛正維持と共に資金が反体制派に流れないように講じた施策ではないかと商社の人より聞いた。電話も盗聴されている由であった。

さて翌1980年の922日の事である。神戸製鋼は其の後受注したイラク北方の硫酸プラントを、そして隣国のイランで受注した製鉄プラントを、夫々建設中であったところ、イラン・イラク戦争が始まったのである。

私は其の頃東京で海外プラントの営業部に在籍していたが、当社はどちらの国にも日本より大勢の人を建設現場に派遣していた。其の人達の身の安全には連日内地側でも誰もが胃が痛む思いが続いた。

工事の相当なコストアップを承知で一時的引揚げを敢行する事も有ったが、節々で引揚げか現地駐留続行かの二者択一に内地側は難しい判断を迫られた。


現代のバグダット市街風景
流れている河はチグリス河
モスクのドーム屋根が見える
道行く女性は黒の衣服を纏っている

やがて現地側との国際電話が不通になることが多くなって来た。従って急遽、予め安全地域への非難ルートや方法等を現地側と日本側が相談し合って何通りか決めた。そして肝心の緊急時に電話が不通で互いに連絡がとれない場合には、現地側プロマネ(プロジェクト・マネジャー)の判断で避難脱出行動に移っても好いとの権限を本社より両国夫々のプロマネに与えるに至った。

やがて硫酸プラントの建設部隊は、地味だが頑張り屋のMプロマネ以下が頑張って遂に完成させた。(勿論イランの製鉄プロジェクトでも建設部隊は同じく戦争中ながら負けず劣らずよく頑張った。)

ところが、此のイラクの硫酸プラントは建設が完了したものの試運転に入ると大変に手こずり始めた。と、言うのは当社が某社より導入した製法プロセスでは現地の原料特性に充分に適さないようだという事が判り、試運転中に機器類の腐食が始まりトラブルが相次いだ。

モグラ叩きのようなパッチ当ての連続で現地、内地とも事態収拾に大変手古ずった。私は最終決着のためイラクに入り北のモスールの現場に行った。Mプロマネと一緒に客先の現場責任者に会い、其の後バグダッド本社の責任者にも会って交渉した。

幸いに既に試運転中でも製品は何とか事実上商業生産されていた事、トラブルが一応抜本的に解決出来た事、そして何よりも此の間のプロマネ以下の涙ぐましい努力を先方が高く評価してくれていた事、により円満裡に決着した。プロマネ以下の当社の部隊の努力に対する評価を先方責任者が気持で表してくれていた事が印象に残っている。

混迷を深めるイラクの現状は嘆かわしい。あのバグダッドのチグリス河畔で会った明るい女学生達も、もう20才台から30才台になっている筈。無事で幸せな人生を送っているだろうか。尚、イラン・イラク戦争での当社関係の死亡者、怪我人はゼロで、幸いであった。