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青空市場のスケッチ
賑やかな炎天下の市場の風景
 
ナイジェリアは日本より遥か彼方の西アフリカに在る。
 
日本で活躍中のタレントのボビー・オロゴンは此の国よりやって来たし、かつて世界を風靡(ふうび)した米国の伝説的ジャズ歌手ルイ・アームストロングも此の国から新大陸アメリカに連れて来られた奴隷の子孫である。

この国はアフリカの大国で国土は日本の2.5倍、人口は約1億3千万人、豊富な石油、ガスの産出国であり、サハラ砂漠以南のブラック・アフリカとしては唯一のOPEC加盟国である。   

さて私が此の国に初めてやって来たのは1975年に5年有余のニューヨーク駐在を終え、新米の課長として帰国 した僅か数ヶ月後の事であった。
 
正にカルチャーショックであった。結局、後に延べ30数回、通算1年半くらい滞在することになる出張の初回に過ぎなかったとは正に神のみぞ知る。

此の生まれて初めてのナイジェリア出張では私は神戸製鋼の数名のミッションの一番下っ端の社員としてやって来た。40才の事である。
 
当社は、まだ私が帰国後に僅か3ヶ月位で輸出部に転勤になる前に、此の国の線材圧延プラント・プロジェクトで国際入札に参加していた。既に見積もりも提出していた。軍事政権下の頃である。
 
このミッションの出張目的は札入れ後のフォローであった。然し、商戦に先行していた英、独、伊、仏、オーストリア等々の計8カ国の強敵に比して、当社は此の国では強(したた)かな欧米勢と違って土地勘は皆無でビジネス・ノウハウも無く完全にド素人であった。

そのために、此の国の諸リスクも分析出来ず、社内関係部署で怖い怖いで夫々高めに見積もった建設工事込みのプラント見積合計価格は膨れ上がってしまったようだ。無理も無いことだが。
 
ミッション現地到着後に知ったのだが開札結果は9社中の9番で惨憺たる大ドン尻であった。軍事政権と担当の工業省は東洋人が暴利を貪ろうとしているのだと誤解してカンカンに立腹していた。

従って既に当社は毛嫌いされ事実上出入り禁止の如き状況になっていた。それを知らずに此のミッションがやって来てしまった格好だ。止むを得ずミッションは日本にトンボ帰りとなった。

然しである。上司の指示で私独りだけがポツンと残された。そして東京から同行の当時の商社N社のMさんと全く空しいと思われた反撃を模索することになったのである。

因みに、此の頃のナイジェリアは、酸鼻を極めた凄惨なビアフラ内戦が終わって未だ5年。此の内戦はイスラム教、キリスト教の対立に加え、何よりも同国内の石油資源の争いが最大の原因であった。英国が連邦政府を、一方フランスが後で負けることになるビアフラを、夫々軍事支援していた為に戦禍が必要以上に拡大した。
 
石油資源を擁しているビアフラ側に約200万人の餓死者が出て世界の耳目を集めた。石油、ガス資源はシェル、モービル、等の世界メジャーが権益を抑えていた。

さて協力商社N社の当時のI課長(現在独立していて東京のG社の社長)や駐在所長、所員とで原点からの活動を開始した。
 
此の頃ナイジェリアは、特に首都のラゴスは1973年のオイルショック以来怒涛の如く流入してくる巨額のオイルマネーで沸き返っていて社会やインフラが混乱していた。

数週間後に一旦は引き揚げて帰国したが、確か2,3回目かの出張の現地滞在中に日本から上司が来るので空港に出迎えに行ったが、空港で私は横暴な管理官に我慢がならず大いに揉めた。挙句の果て互いに引っ込みが付かず、外の警察署にまで押しかける羽目にもなった。兎も角、最初は余りも愉快ではない事が多過ぎた。
 
子供のスケッチ
一人の女性が沢山子供産むので何処に行っても子供が多い
世界中何処に行っても子供は可愛い

当初は土地の人が皆同じ顔に見えたが、然し欧米勢への反撃の為の出張回数が重なるに連れて大体顔つきで部族がある程度判別出来るようになって来たて我ながら驚いたものである。

 
例えば、先に述べたジャズ名手のルイ・アームストロングの先祖は、そして今日本で活躍中のボビー・オロゴンも、ヨルバ族出身と思う。

ラゴスは何かムンムンする熱気と活気が溢れていたが、入国外国人の増加、地方からの流入等による人口増で電力、水、ホテルなどのインフラが追いつけずテンヤワンヤ。
 
外国からのビジネスマンでホテルは有卦(うけ)に入っており、完全な売り手市場。予約は前払いしないとダメ、途中でチェックアウトすると精算金返済は絶望的に近かった。

夕刻、一日の活動を終えてクタクタの汗まみれになってホテルに帰って来てみると、荷物が部屋の外の廊下に放り出されていて中に入れぬ事もあった。チップを弾んだ他の客に部屋を取られたのだろう。
 
停電したり、蛇口を捻っても水が出なかったりは日常茶飯事。停電でエレベーターが中吊りとなり、真っ暗なサウナ風呂に閉じ込まれたような状態になった。

街は道路が車で渋滞しイライラの警笛が鳴り響き、半端な喧騒ではなかった。激しい風雨の後、電線が切れて水溜りに垂れ下がっており感電死の死体が水に浸かっている事も有った。
 
屋台のコソ泥が大勢の人に追いかけられて敢え無く掴まり、群集が立ち退った後には哀れ死体だけが独り残されていた。厳しい自浄の掟だ。
 
また真昼間、若い女性が器用に腰布をたくし上げスラリとした長い足で優雅に溝を跨ぎ、立ったまま用を足しているのを見ると、むしろ無邪気で可愛い感じがしないこともなかった。日本でもかつては田舎に行くと女性が外で用を足すのを結構見掛けたものである。
 
兎もかくラゴスの街は活気と喧騒に煮えくり返っていた。

私は海外の何処に行っても早朝のジョッギングを欠かさなかった。都会でも、田舎でも、アルジェリアの砂漠近くでも、ザイールのジャングルでも。ラゴスでも毎朝汗を拭き拭き走った。走る道路の両端の住居は1階も2階も窓は全て防犯用のガッチリした鉄柵で覆われていた。
 
欧米人のジョッギング姿をよく見掛けたが、セキュリティの為に大きな犬を連れて走っていたり、現地人が運転する自家用車を伴走させながら走っていたり、夫々工夫しているようだった。

赤道近い青空に雪山の如く聳え立つ入道雲は光芒を放ち素晴らしかった。或る朝大空に見惚れて歩道を走っていたら、足元に穴が開いているのに気付かず、嫌というほど強かに脛を打ってしまった。血が迸り(ほとばし)ながら走り続けたが、途中N社の社宅で手当をして頂いた。

商戦は激戦で予定を立て難く、1週間の予定がしばしば2週間となり、3週間となった。敵の技術仕様書に関する重要情報等が入り、夜半N社の事務所を使わせて貰いテレックス・マシンで内地向けに長いテープを打ち込み、電報局に持ち込むことも時折有った。
 
天井で大きな扇風機が生ぬるい風をかき回すだけの局の待合室でいつも根気よく待った。マラリヤの蚊にやられぬように用意して持参したスプレーを足に、首にシュッシュッとやりながら、2時間も3時間も根気よく待った。埒があいた時は嬉しかった。

連日心身を磨り減らすと自制心も鈍る。帰りがけに、つい暗いバーに立ち寄ったこともあった。でも、翌日内地の営業や設計のS課長等から頼もしいシッカリとした回答が協力な援軍のようにテレックスで飛び込んで来た時には熱いものが胸に込み上げて来た。
 
仕事に執拗なS課長が、其の部下が徹夜で真剣に知恵を絞ってくれたのだ。また神鋼エンジニアリング事業部、鉄鋼事業部の一旦こうと決まった時の底力の凄さは、現地に居ても男冥利に尽きた。
 
また、私とよく一緒にナイジェリアに来てくれたT君(現在は神戸製鋼のエンジニアリング子会社の社長)は淡々としていわば火の中、水の中にも跳び込んくれる男であった。兵(つわもの)が少なくなかった。
 
正装の男女
お揃いの正装の紳士淑女
男性は皆帽子を、女性は皆スカーフを被っている
 
足繁く客先の工業省担当官のところに通っている内に、やがて心の琴線が微かでも通い始めたかなと実感出来た時は嬉しかった。
 
また、客先の技官に家に招かれた事もあった。裸電球の下で蚊がブンブンと纏わりついて来る部屋だが、奥さんが沢山の白いベタベタした団子と水を振舞ってくれた。
 
薄暗い部屋で白い団子が妙に浮き上がって見えた。でも其の好意が嬉しくて一生懸命に全部平らげた。極く僅かづつ乍らも此の国に対する見方が変って来た。

商談はご破算の再入札となり、当社は結局終に逆転受注に成功した。
 
北部でのプラント建設地での当社の建設部隊および其の後の操業運転指導員の涙ぐましい努力は素晴らしかった。
 
また現地人労務者の賃上げ騒動の時には此の地方の稀有の人格高潔なエミール(イスラムの王様)に助けられて事無きを得た、

ラゴスの代々のN社の所長夫妻、所員夫妻には大変お世話になった。殊に其の後に赴任して来たNさん夫妻には筆舌に尽くせぬお世話になった。今、Nさんはソウル支社の社長になっている。
 
ご夫妻とは今でもお付き合いしている。また日本大使館のT商務官のにも大変なご支援を頂いた。よく奥様の手料理にも預った。

あれから20年近い。喜怒哀楽も、其の内の「怒」と「哀」が薄れて来て、遠い夢のようである。