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1969年赴任当時のアメリカ社会は泥沼化したベトナム戦争をまだ引き摺っていた。やがて私の様な30台半ばの外国人居住者ですら徴兵当局に一応は出頭し登録させられる迄になった。勿論直ぐに徴兵という事は有り得ないが、万々一の場合の施策であったのだろう。

当時の為替の方はと言えば、1971年のニクソン・ショック迄は1ドル360円の時代であった。だから其れ迄は日米の価格競争力は圧倒的に日本有利であり、米国の製造業は元気が無かった。

ベトナム厭戦気分も出始めており、街には若いヒッピーも多かった。彼らは風来坊のようで身なりも含めて何かだらしない感じがしたが、さりとて悪気は無さそうであった。謂わば方向感覚を失った若者の群像のように見えた。ニューヨーク市のマンハッタン街でもビルの谷間や駅構内でダンボールにくるまったホームレスも目に付いた。

にも拘わらず、ニューヨークのみならず何処に行っても不思議と余り暗い感じは受けなかった。これはアメリカ生活に未だ充分に慣れていない私の目にとっては、アメリカ人の外見が肌も毛髪も服装も皆カラフルであるだけに、陰が隠れていた為も有ったろう。

それにも増して元々(かつ)ては祖国に別れを告げ、決然と遥々大海原を越えて新大陸に移住して来た強い人達のDNAを持つ子孫、そして現代でも移住して来る連中は矢張り苦を努めて笑い飛ばすだけの芯の強さを持っているのだろう。

駐在員としての仕事は矢張り、飛行機や車を使った国内やカナダへの出張が頻繁であった。私はシボレーの大きな車を乗り回していたが、片道数時間をぶっ飛ばす程度の運転は全く苦にならなかった。若かったし、何より車も大型であり何より道路状態が良かった。


アメリカでは郊外や地方に出ると、
高速の対抗車線道路はいづこもかなり離れている

自家用車のシボレー「インパラ」

郊外や田舎に出ると幅広い高速道路の両端は何処まで行っても平坦な芝生が広がっているし、反対車線の道路はかなり離れていた。だから郊外や地方では正面衝突のリスクはゼロに近い。緊張感が無く単調と言えば単調。

夜更かしが続いたような時には居眠り運転をしかねない。睡魔が襲って来くると。やばいと思って、安全のため車を路肩に一時止めて仮睡する、という夢を見ながら運転をしていたことも有った。一瞬目が醒めて気付いた時には、ギョッとして冷や汗が出たものである。

ニューヨークからロスアンジェルスまで4,000キロメートルという広大なアメリカでは、電車とかバスの公共交通インフラが網の目のように発達の仕様が無く、大都市の中心地は別にしても車が無いと生存していけない。ヨレヨレに背が丸まってしまったお爺さん、お婆さんでも、あれで前方が見えるのかと心配する位に運転席にうずくまって車を飛ばし用事に出掛ける。

当時は段々に香港、台湾、ベトナム、メキシコ、プエルトリコ、ロシア等々からの移民が増えて来た。新入りは英語もまだ録に出来ない人達が多い。でも車はポンコツ同然の中古車でも好いから買わないと車社会では生きていけない。

それで少なくともニューヨークでは交通法が変わり英語以外の中国語、スペイン語等でも運転免許の筆記試験が受験出来るようになった。

其の交通法改正を新聞で知った時、一寸待てよ、と思った。だってアメリカは多民族、多人種、多文化、多宗教の謂わば多様社会である。唯一共通なものは英語だけである。それも怪しくなるようなことを結果的に助長してしまいかねない政策は大丈夫なのか?将来に禍根を残さないのか?国家がバラけて行くことはないのか?

然し、帰国後の事だが1990年湾岸戦争が勃発すると白人も黒人も黄色人も、そして男性も女性も星条旗の下に鉄砲を担いで整然と湾岸に出ていく光景をテレビで見た時、一体アメリカとは何だろうと思った。

矢張りアメリカの底力は移民及びそのDNAを持つ子孫が持つタフネスさが根底に在るのだろうなと思った。そして其の基盤の上に伸び伸びとしたデモクラシーと自由と、そしてそれを支えるシッカリとした法治の為だろうなあと思った。でも、どうやって其の国の「かたち」が維持出来ているのだろうかとアレコレ考えたものである。