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196934才の米国ニューヨークへの渡航を書く前に、アメリカに係わる私の心象風景として太平洋戦争終戦前後のことを書いてみたい。

私は太平洋戦争中、空襲で全東京が危なくなる頃、生まれ故郷の東京下町の本所を離れて千葉房総に集団学童疎開をした。長生郡の如意輪寺というお寺に小学3年生と4年生の男子生徒ばかり約50名が引率の男性先生の下に集団生活を営んだ。

 

昭和20310日の朝、

集団疎開先のお寺の井戸の周りでいつもの通り我々学童が早朝洗顔していた。

すると東京の方の空から焦げたお札が一杯飛んで来た。
(筆者スケッチ)

疎開中の1945年の確か310日の朝、起床して皆でいつもの通り外の離れた処に在る井戸の周りで洗顔をしていた。すると東京方面より空を覆うようにヒラヒラと何やら黒い物が沢山風に乗って舞うように飛んで来た。次から次と拾って見るとお札の焦げたものであった。

9日夜より陸軍記念日の10日の朝にかけて東京下町が大空襲に遭ったという事が後になって判った。此の空襲で東京の親族を失った仲間も居た。また此の前後、お寺の我々の居間になっていた大部屋の古いラジオがアッツ島、サイパン島等での皇軍の玉砕を報じていた。

子供心にも敗戦を予感した。我々は栄養失調になっていた。温かい日には皆縁側に出てシラミ取りをやった。面白いように沢山取れた。敵の艦載機はしばしば来襲し寺の近くでも機銃掃射をして行った。教えられていた通り米英は鬼畜と思った。

 

終戦後東京に帰った。本所の家は空襲で焼かれたので其処には帰れなかった。父親が大蔵省財務局に勤務していたので神田猿楽町の財務局の寮に入って漸く家族が一緒になった。

 

私は夏目漱石も出た錦華小学校の5年生に入った。錦華公園の直ぐ上の「山の上ホテル」は当時米軍に接収されて婦人将校専用の宿舎になっていた。神保町の靖国通りには時々機関銃を載せた米軍ジープがせわしげに疾走し、街往く米兵は腰に拳銃を下げていた。

 

其の神保町の日活映画館でやがてアメリカ映画が上映されるようになった。終戦後日本に輸入された洋画第一号は「ユーコンの叫び」という映画であった。

 

終戦直後神田猿楽町で住むようになった。

靖国通りの神保町の辺りを、

機関銃を据えたアメリカ進駐軍ジープがよく疾走して過ぎて往くのを見掛けた。

(筆者スケッチ)

雄大なアラスカの山河がスクリーン一杯に映し出され、其の迫力に私は息を呑んだ。グレゴリーペックの「仔鹿物語」は確か山河の自然豊かなワイオミングが舞台であったと思う。ワイズミューラーのターザン映画やジョンウェインの西部劇には夢中になった。

私の心の中では「鬼畜米英」は雪解けのように呆気無く消えて行った。小学生の私は情け無くも、スクリーンに映し出されるアメリカの景観と金髪の美人に魅了されて行ったのである。私には兄の如き存在であった梅彦叔父が比国ルソン島で戦死したが、一高学徒出陣、陸軍中尉、享年21才。敗戦国の少年の心が戦勝国を憎しむどころか逆に惹かれて行ったので子供心にも叔父には内心申し訳無く、複雑な思いがした。

さて、それから時代がずっと下って24年後の1969年に、生まれて初めて渡米し神戸製鋼のニューヨーク事務所に赴任した。嬉しかった。ニューヨークのケネディ空港に着き、自動車がトライボロー橋に差し掛かるとイーストリバー川の向うに忽然と摩天楼が姿を現した時には感動した。


当時の海から見たマンハッタンの摩天楼(筆者スケッチ)


ニューヨーク赴任当初に単身で住んでいたアパート自室からの風景。

ハドソン川の対岸はニュージャージー州。冬季は川面は氷で真っ白になる。

最初の半年は社内ルールに依り単身生活。マンハッタンの上()の方で例のハーレムより程遠くない「マスター・アパートメント」という古いアパートに入居した。高い階の私の部屋からは眼下の公園の先にハドソン川が悠然と流れていた。対岸はニュージャージー州である。このアパートにはかつて戦前に山本五十六元帥が若い下士官の時代に逗留していたとか。

ニューヨークでの第一夜が明けた翌朝は事務所初出勤。地下鉄駅へ歩いて行く途中、街角に新聞スタンドが有り色々な新聞が並んでいた。何か一つ買おうと思ったら、何と殆どがスペイン語の新聞。そう言えば此の辺は黒人も然ることながら、プエリトコ人などヒスパニックが多い地域だった。

地下鉄に乗る前に先ず朝飯をと思い、6〜7人で一杯になるような小さな食堂に入りカウンターのところに座った。カウンターの向うで調理している親父さんにハムエッグを注文した。すると卵はどう料理したら好いかと訊かれた。何でも好かったが目玉焼きと答えた。すると目玉はsunny side up (黄身が上向き)か?又は Over(下向き)か?と訊かれたと思う。

英語が未だよくは聞き取れない時であったので、面倒だから茹で卵で好いと注文を変えた。するとthree minutes か?何minutesか?と訊かれた。参った、参った。何でもいいんだよ!早くしてくれよ!会社に間に合わなくなるよ!とキレそうになった。パンを注文すると white(焼かない侭の食パン)か?toast?かと、攻めて来た。何か恰も嫌がらせを受けているようで、『もう好い加減にしてくれー』と叫びそうになった。

考えてみれば日本なら高級料亭のお座敷でも、会席料理はメニューも調理法も皆お店任せで客は相手を信頼して全く受身である。アメリカでは場末のこんな安食堂でも個人個人の好みを一々斯くも確認するのかと、腹が立つやら、感心するやら。

漸く朝飯を済ませて地下鉄に向った。切符を買って乗ると日本と同じように通勤ラッシュであった。人混みの中を吊革に掴まって揺れていると背中を何やら大きなゴムまりの様なもので押して来た。然も繰り返して。振り返ると黒人女性のお尻だった。矢張り、エライ所にやって来たなあと、不思議にファイトが湧いて来た。

仕事の合間に自動車の免許証も取得せねばならなかった。独身時代の東パキスタン(今のバングラデッシュ)では時に運転手任せでなく、自分で自動車を運転することも有った。日本に帰国してからは私の給料では車も買えず、全く運転せずに推移した。だからスッカリ運転技術を忘れてしまい、家族到着までに運転をイロハから覚えなければならなかった。

教習所の先生がデカイ車で会社まで迎えに来てくれた。アメリカ、少なくともニューヨークには元々練習場が無いようだ。ほぼいきなり車が飛び交う5番街等での練習となった。実戦的であった。やがて、先輩駐在員同様に会社よりレンタカーをあてがわれた。ブルーの大きなシボレーであった。 

約半年経ち間も無く日本から家族がやって来る頃、飛行機でデトロイトへの日帰り出張が有った。帰路機内で中年の黒人女性と隣り合わせた。白人の血がちょっと入っているようでもあった。気さくで話好きなのか、これからニューヨークの妹の家に遊びに行くとか、その間コレコレの所に遊びに行く予定とか、色々と話し掛けて来た。連絡先と言って、妹の電話番号まで教えてくれた。止せば好いのに求められる侭に私もうっかりとアパートの電話番号をメモに書いて渡してしまった。

まさかと思ったが、その夜電話が掛かって来て『これからあんたのアパートに遊びに行っても好いか?』と訊ねて来た。私は今友達が来ているから都合悪いとウソをついた。翌日の夜も翌々日の夜もリンリンと来た。私は駄目だという口実を探すのも面倒になった。だから寝しなに洗濯物を入れている段ボール箱の底に電話器を入れて洗濯物で被せた。そしてご丁寧に更に其の上から毛布一枚を丸ごと詰め込んだ。さてこれで安眠出来ると寝入ったが、夢の中でチリンチリンと鈴虫の鳴くような音がした。

家族が無事到着した。暫くしてマンハッタン島より出て北のリバーデールという地域のアパート(日本流には賃貸マンション)に移った。緑の多い閑静な場所で西側には大きな屋外プールもあり其の先の林の傾斜地を下っていくともうハドソン川であった。隣にはプロテスタントのプレビスタリアン派の教会が有った。立派なゴシック建築であった。バザーになると家内も駆り出され、巻き寿司などを作って協力した。周囲のアメリカ人は皆とても親切であった。

家族が来てから移り住んだリバーデールの

アパート(マンション)の前で。

家内と間も無く生まれた次男。

アパート名はウィンザーで

当時住んでいた日本人家族の奥さん連中は

今も定期的に食事会を楽しんでいる。

アパートの裏に在るアパート専用プール。


マンハッタン5番街のセントパトリック教会の前で。

私は国内出張が多くて家を留守にすることが多かったが、家内も幼稚園の息子も元気でニューヨークの生活に馴染んで行ってくれた。私は自動車通勤であったが、早くも毎晩会社の帰りがけには日本人仲間とバーで一杯引っ掛けて帰ることが多くなった。当時はアメリカでは飲酒運転は日常茶飯事ではあったが、今から思えば大分家内に心配を掛けてしまったなと反省している。