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私は、東パキスタン奥地のフェンチュガンジで凡そ(およそ)1962年より1年位駐在し28歳になった頃、首都ダッカの駐在事務所に転勤することになった。仕事は依然フェンチュガンジ肥料工場プロジェクト関係である。

任務は、@客先である産業開発公社のダッカ本社部門との連絡折衝業務、A奥地の肥料工場現場より任務完了で順次ダッカ経由で日本に帰国する人達に対する支援、B親身になって世話をしてくれていた日本総領事とのコミュニケーションであった。

我々の事務所の日本人は所長と私の二人だけであった。事務所は客先の本社ビル内に間借りしていたので客先とのコンタクトにも何かと便利であった。

ダッカは流石に首都であるだけに主要な日本商社は殆ど皆小さいながら駐在事務所を設けていた。大体どこも日本人は単身の駐在員一人位だけであった。

南の港湾都市のチッタゴンでは当時まだ健在であった江商や安宅のような中堅商社は予算の制約上一室だけの狭苦しい事務所であった。おまけに、其処にベッドを持ち込んで宿舎兼用に使っていた。

其の点、首都ダッカでは皆事務所と住まいとは一応別々だった。でも住まいの方にも夜など商談の来客が多いようであった。


ダッカ市街頭の椰子の実の売店風景

自動車は此の1963年当時は未だ少なく、
タクシーは専らこの様なリキショウ(人力3輪車)であった

此の地でも日本の商社駐在員の間では商売の競争が激しかった。ダッカのような狭いところだけに仕事を離れても顔が合ってしまうことが多くて、互いに憎しみがいつ迄も忘れられないようであった。

プロジェクトに従事するメーカーの私としては其のような利害関係も無く、直ぐ2〜3の商社の駐在員の人達と仲良くなった。日曜日等は草競馬場のサークル内の真平らなゴルフ場でプレーを楽しんだり、夜は中華料理屋に出掛けたり、遊びに出掛けたりしたものだった。


競馬場脇の緑豊かな道路


競馬場の筆者。
2列の柵の間は競馬のレースに使用され、
奥の柵の向こう側のは平坦なゴルフ場。
時折プレーを楽しんだ。

或る時、友人の某商社駐在員が「顎口虫病」に掛かった。病菌源と言われる雷魚を生で食べた訳でもないのに。

治療のため本人は日本に帰国した。東京御茶ノ水に在る日大駿河台病院に長期入院していたので、私は後日帰国してからも入院中の彼を見舞いに行った。

此の虫にやられると皮膚の下で神経を食べらるとかでベッドの彼は哀れにも口元がかなり歪んだ侭であった。健気にも無理に笑って強がって見せてはくれたが、大学時代の空手部猛者の面影は薄れて哀れであった。

虫が皮膚の表面に出そうになると枕元の呼び鈴で医師に知らせるので医師が飛んで来てはくれる。が、医者がメスで虫を駆除しようとすると虫は又潜ってしまうとか。

治療だが、太平洋戦争中に米軍が開発した治療薬が存在していることが判り、病院は調達してくれていた。小柄な日本人には副作用がキツ過ぎるらしく半錠づつに減らして服用していた。結局やがて退院したが大きく歪んだ口は終に元に戻ることはなく、私は気の毒で正視し得なかった。  

健康と言えば、奥地のフェンチュガンジ現場の或る駐在員の奥さんの体が具合悪くなり治療の為に主人付き添いで夜行列車に乗りダッカの病院にやって来た事もあった。ご夫妻とも私が懇意にしていた人柄の良いカップルであった。

私は病院の手配、医者のアポ、通訳などをやった。婦人科関係の英単語は全く知らなかったので関係する語句を一夜漬けの「付け焼刃」で勉強せねばならなかった。

必要とは言え私のような独身の若造にプライバシイを伝えて下さるご夫妻にはお気の毒で申し訳無く思ったが、私も辛い思いをし神経を使った。

私は時折、往復とも夜行列車を使ってダッカとフェンチュガンジを出張で往復したが、コンパートメントは大体二人乗りの寝台車であり密室同然である。知らぬ旅人と相乗りになった時には煩わしいことも有ったし、一時治安が悪い時には、念の為ナイフを肌に潜ませて乗ったものだった。

196311月の或る夜明けに、フェンチュガンジよりダッカ駅に帰着した。列車のタラップからプラットホーム代わりの地面に跳び降りたら、薄明の中を風に吹かれて何か紙がヒラヒラと飛んで来て足元に落ちた。何気無く拾って見ると前日付けながら、米国ケネディ大統領暗殺の号外で、衝撃的であった。

ダッカ駐在時代も、回教徒と少数派のヒンズー教徒との間の宗教紛争がよく勃発した。隣国インドでは逆に少数派である回教徒が嫌がらせを受けたり、虐められたりすると、今度は東パキスタンの方で回教徒が黙ってはいなくヒンズー教徒に仕返しをする、という報復の連鎖であった。


回教のモスク。
宿舎のバンガローにも朝な夕なに礼拝を呼び掛ける音声がスピーカーを通じて流れて来た。

暴動は非道い時にはダッカ市内だけでも少なくとも毎日数十名の回教徒が殺害されたと報じられていた。左様な時には外出禁止令が布告されたが、確か国際空港は閉鎖されていなかったと記憶している。離着陸の客は市内をどう往来したのか。送迎の人達はどうしたのか。何か飛行場に出迎えに行くため車を運転していた米国人女性がレンガを投げられて怪我をしたとか。

所長と私が住んでいたバンガロー(向うでは比較的大きな邸宅はバンガローと呼ぶ)でも現地使用人のうち掃除人夫はヒンズー教徒であったので少々心配したものだった。

使用人と言えば、我々のバンガローには約9人が働いていた。二人のベアラー(召使)や料理人達は家族とも同じバンガローの敷地内の別棟に寝泊りし、大体その他は通勤していた。召使、コック、運転手、門番、夜警、掃除人、等々の大人数だが、駐在員や中産階級以上の現地人家庭では此の程度は当たり前であった。

逆に使用人の数が少ないと、雇用問題に協力するという形での社会的布施が少ないという事なのか何か顰蹙(ひんしゅく)を買いそうな感じさえ有った。

それに此の国はインド大陸の一角だからカーストが厳然と残っていて、我々が此の秩序を無視して例えば召使に対し、彼よりも下位のカーストがやる掃除をさせようものなら必ず反発を買う。

因みに9人分の賃金を合計しても、日本人の一人当たりの人件費よりも比較にならぬ位に小額であった。それでも彼らの中には複数の奥さんを養っている者も多くいた。

日常一般的に治安は悪くなかった。犯罪は精々コソ泥程度。でも、或る時出張先のチッタゴンより帰宅してみると、私の部屋の私物はカメラ、時計、等々きれいサッパリに消えていた。盗まれたのである。

この盗難事件を直ちに色々調べてみると、どうやら鮮やかな手口で、極く短時間に起きたとしか考えられなかった。きっと内情に詳しい使用人の誰かがやったか或いは外から手引きしたとしか考えられなかった。よって使用人を炎天下の庭の芝生に整列させて犯人の自首を待つことにした。

でもいくら待てども自首無し。日射病になってもいけないと思い、また内部犯行の確証が有る訳でも無く、最後はこちらが根負けして解散させた。

然しいずれにしても、我々日本人はカースト制度下での使用人の扱い方が甘くて下手であったと思う。また下手でもそれで好いのだと思う気持も有った。何故なら相手も同じ人間ではないかと。

此の点、インド大陸を植民統治していた旧宗主国のイギリス人在住者は、例えば外出より帰宅し靴を内履きに履き替えるような場合でも、彼らは椅子にドカッと座って両足を投げ出し、後は召使にやらせるとか聞いたものだった。本当としても我々には真似は出来なかった。

港町のチッタゴン市にはダッカからプロペラ機で約1時間。

日本からの船便貨物の通関督促の為によく出向いた。

ベンガル湾を見下ろす郊外の静かな丘に登ると太平洋戦争で日本軍との戦闘で戦死した英印軍兵士の白い墓標が並んでいた。

同じ一角に彼等にとっては敵に当る筈の日本軍兵士のキチンとした墓標も偶然に目に入った。

墓標には「18名の日本兵士と1名の無名兵士ここに眠る」と彫られていて

18名の兵士の階級、姓名、戦死年月日がローマ字で見事に刻まれていた。

イギリスの武士魂か。天晴れである。

やがて、私が任務完了となって帰国する朝、召使、料理人等に長い間世話になった礼を述べ、また感謝半分お愛想半分に、『毎朝の食事で工夫して食卓に出してくれたと思う「炒り豆腐」は旨かったよ。』と礼を言った。

すると彼らはポカンと怪訝な顔をして言ったものである。『マスター(ご主人様)、あれは羊の脳味噌ですよ。』と。

往路同様に帰路もインドのカルカッタで一泊であった。建物が立ち並び、バス、トラック、タクシーが多い都会風景に改めて目を見張った。

また、頭から足先まで身を布(サリー)で包んでいた女性に馴染んでしまった目にとっては、綺麗なアングロ(英国人とインド人のハーフはこう呼ばれていた。)の女性がスカート姿でスラリとした脚を惜しげも無く出して颯爽と歩いている風景に魅せられたものだった。

(後記)

第(1)稿と此の第(2)稿で、現在はバングラデッシュと呼ばれる此の国の肥料工場建設に係わるエッセイを書いた。

神戸製鋼は終戦後未だ余り間も無い昭和30年代の中頃、三菱重工(其の頃は確か新三菱重工)、石川島(未だ播磨造船と合併する前)、富士電機、明電舎と計5社のコンソーシアムを組んで契約した。

協力商社は三井物産であった。土建工事は清水建設が担当した。尖塔の様に空に伸びる合成塔、反応塔等の組み立てや配管も多く、専門家のトビ職も日本から派遣された。

此の事業は日本にとって戦後最初のプラント輸出であった。建設終盤の試運転時には、高く聳える造粒塔の先端から真っ白な尿素の結晶が沢山パラパラと降り始めた。

成功だ!其の瞬間を待ちに待った現場の男達は艱難辛苦も忘れ、当時ヒットした加東大介主演の映画「南の島に雪が降る」の如く、『南国に雪が降る!雪が降る!』と歓喜して小躍りしたと伝えられている。

此の工場で造られる肥料は長い間当国の重要な民生の食料生産に大いに貢献して来た。