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小柳和郎

私は1962年駐在員として回教国の東パキスタンに向うことになった。生まれて始めての海外渡航である。独身27才の神戸製鋼社員である。後に東パキスタンは西パキスタンより独立してバングラデッシュと改名されることになる。


尿素肥料工場の主要施設の光景。
神戸製鋼を主契約者とする日本コンソーシアムが1962年に完成。
原料は地元で採掘される天然ガス。
日本にとって戦後最初のプラント輸出。
(此の時代は写真もまだ白黒時代。)

神戸製鋼を主契約者とする日本コンソーシアムが此の国の産業開発公社と契約し、北の辺境地フェンチュガンジに大型の尿素肥料工場を世銀借款で建設した。日本にとって戦後最初のプラント輸出である。私の赴任時は既に建設も完了し、引渡も済んだばかりであった。

注:資本・企業連合体

私はそれ迄は新入社員として2年間ばかりコンソーシアムの内地事務所で出荷業務等に従事していた。私の赴任先は現場事務所で、任務は建設残務整理や引渡と同時に始まった操業指導関係の業務である。

私は海外雄飛を夢見ており、生意気に英国トインビーの文明評論書「チャレンジとレスポンス」等を読んだりして啓発と刺激を受けていた。

東パキスタンは瘴癘の地でマラリヤ、天然痘、赤痢が多く、また現場は盛大な引渡式も済んで、謂わば大きなお祭りの直後の寂しさが無い訳では無かったが、兎も角始めて憧れの海外に行けるということで嬉しかった。

 
注: 他の土地から来た人が、慣れない気候・風土のためにかかりやすい、伝染性の熱病。例、マラリアなど。

日本の国際線空港は未だ羽田しかなかった。出発の当日、空港出発ロビーに着くと、当時の空港での大時代的見送り風景と同じく、数十名の見送りの人が来てくれていた。友人、会社関係、親族、親戚、そして2〜3軒の飲み屋のママと女の子。

飲み屋については八重洲や銀座でのツケが溜まっていたが、出発に先立ち大分親父の脛を齧らせて貰い、きれいに返済出来てやれやれであった。皆から万歳三唱を受け面映ゆかった。

愈々皆とお別れして出国管理を通り搭乗ゲートに向った。が、緊張していたのか大きい方の便意を催したので幸い途中に有ったトイレに入った。

生まれて初めての西洋式であった。腰掛けて用を足している時に、フト隣との仕切りの下の隙間を見ると大きな軍艦のような靴(外人?)が私とは違って逆に入り口の方に向いていた。慌てて向きを変えた。

当時は日本から東パキスタンに行く直行便は無く、乗り継ぎの関係で先ずインド航空でカルカッタへ行って一泊することになっていた。当時は偶々(たまたま)、インドと中国が国境紛争で戦闘中であった。インドに行く場合には日本人が中国人に間違えられると危ないので、渡航時に旅行会社より渡される日の丸のワッペンを胸に着用しておくよう指導を受けていた。

私もそう従った。然し、本来ならば胸に日の丸はスポーツ選手みたいで晴れがましい筈であった。でも考えてみれば如何にも『私は日本人だ。中国人に危害を加えるならいざ知らず、間違って私には加えるなよ。』と言わんばかりである。これでは中国人に申し訳ないと思ってカルカッタ空港に着くなりワッペンは外してしまった。

 

無事現場に着任した。日本人の数は勿論建設時よりはかなり減っていたが、それでも未だ数十人と一部その家族が頑張っていた。家族と言っても未だ子供のいない若い奥さん達であった。

今思えば当時としては家族帯同は進歩的で会社の開けた計らいであったと思う。サイトには建設時代からのレンガ造りの白い長屋が蒲鉾兵舎みたいに幾棟も並んでおり、其の中の一室を割り当てられた。エアコンは課長以上にしか割り当てが無かった。年寄りの平社員は気の毒であった。

質素な木製のベッドは四隅から細い角材が上に伸びており、白い蚊帳を上から掛けるようになっている。マラリヤが多いので総務課より予防薬服用も義務付けられていた。キニーネか何か副作用がきつい薬であった。

部屋の壁は外壁と同じく白いのでヤモリが這い回っているとよく目立った。天井には大きな扇風機が回っているが、暑いシーズンはベッドが汗でぐっしょりになった。

少し離れたところに村人の集落は有ったがサイトの周囲は森や野原ばかりで店などは皆無。食事は全てサイト内の食堂で食べた。現地のコックさん達が日本人の指導で料理し、食材の野菜には内地からの非常食用の乾燥野菜を使うこともあった。

貧しい此の国も子供は皆あどけなく可愛かった。

米国製ジープの前で撮った筆者。

配給数量には制限があったが、内地からのビールは何より有り難かった。下戸の人からは譲って貰えるので彼らは皆から感謝された。

周囲は密林であったので猿とか蛇の動物が多かった。

現地の原っぱには「百歩蛇」と言って、小さい蛇ながら人間が噛まれたら百歩行かない間に死んでしまう程の猛毒を持つと言われ、我々は皆シッカリした靴を履くよう命じられていた。

生活は単調であったが、夜はマージャンが結構盛んであった。建設時代にはとび職や大工さんも日本から来ていたので器用な人が作ったマージャン台が何台か残っていたのだ。

また、ビールの配給日の直後の夜は、我々は一室に(たむろ)してビールを大いに飲んだり放歌した。

私の赴任直前の事だが、某君が皆でワイワイと一杯やった後、エロ写真を入れてある箱を棚の上から取ろうとして肘掛け椅子に攀じ登ったが、足を滑らして落ちるという事故も有った。

 

此処では私を含めて誰にでも起こり得る事故であった。彼は愛すべき気の好い男であったが、運悪く股間を強打してしまい手術のため日本に急送された。友達なので手術後私も東京の病院に入院中の彼を見舞いに行った。看護婦さんが患部の包帯を取り替える時は互いにご苦労だったようだ。若くて元気なので直ぐに回復した。

また近くの棟の庭に猿が一匹繋がれていた。此の猿は何故か現地人のコックとか下働きの人が通ると歯をむき出して威嚇(いかく)していた。屈折しているなあと思った。日本人に慣れ切ってしまったのであろうか。

でも、この猿は体のあちこちに傷跡が有ったが、これは建設時代に欲求不満の心無い日本人が時折猿に八つ当たりした時の傷とか。可愛そうに思った 心ある日本人がそっと首紐を解いて逃がすと一旦は脱兎の如く森に逃げ込むが、いつの間にか又元の場所に帰って来てしまうと聞いた。野生を失ってしまったのか。


カルナプリ河。
工場建設時代、合成塔、反応塔などの大型重量物は
チッタゴング港到着時に艀(はしけ)に下ろして、
此の北の奥地まで河を遡って運ばれて来た。
河海豚(いるか)が棲息していた。


西パキスタンのラホールでの筆者。
インドで17世紀にムガール帝国皇帝シャー・ジャハーンがタジマハール寺院を作ったがラホールでもこの様な素晴らしい寺院を幾つか作った。

慰安の為にと、以前から毎月1回は内地より映画フィルムを送って来てくれた。食堂で試写会をやるのだが、ホームドラマだと普段は一見強がっている人でも内地の家族を思い出しホームシックになってしまって慰安にならない。依って或る時以来、専ら当たり障りの無いチャンバラ映画だけになった。

建設時代には鉄道事故や赤痢で殉職(じゅんしょく)者も出たが、操業指導時代に入ってからは幸いに左様な悲劇は無かった。内地の方針でプロジェクト当初から日本人のお医者さんが半年毎の交代で現場に派遣されて来て皆と寝起きを共にしてくれていた。

また日本人の若い看護婦さんが常駐してくれていた。此の点皆、心丈夫であった。どう見ても余り調子が悪そうでもない人までよく医務室に行って相手をして貰っていた。

でも、かつて或るお医者さんの時には、腹が痛いと言って行くと、ああこれは盲腸ですネ、頭が痛いと言って行くと、ああこれも盲腸ですネ、と言われて直ぐに手術になった とか。だからやがて皆の足が遠のいたというエピソードも有った。

私が赴任した頃は人の好いお医者さんと、主人のファーストネームを「さん付け」で呼ぶ如何にも育ちの良さそうな奥さんとが居た。看護婦さんは愛媛出身のK子さんという若い女性で、男連中と同じように健康的によく日焼けしていた。大きな目が活き活きとして印象的であり、明るく男勝りの女性であった。

或る時大変な事が起きた。事も有ろうに、何と此のお医者さん自身が怪我をしてしまった。朝、自宅のトイレ(日本式)でしゃがんで用を足している最中に足を滑らし片足の(かかと)でイヤという程強く便器を打ってしまったのである。瞬間、便器が欠けてエッジが鋭利な刃と化し、(かかと)をざっくりと切ってしまったらしい。

取り敢えず看護婦さんが応急措置を施したが僻地より遥々と首都のダッカまで怪我人を送るのは無理との判断が下された。そして現場医務室で手術を決行することになった。此の看護婦さんが医師役となり自衛隊衛生班出身の K君という痛快な九州男児の二人でやることになった。

(かかと)はアキレス腱も切っているようで二人は医務室に備え付けの医学書に急遽目を通した。当日昼頃になって私を含め事務所で働いていた若者4、5名位が手術の手伝いをするよう呼ばれた。(かかと)に麻酔注射を施すが、手術中怪我人が余り動いてはいけないので応援の男達は頭と手足を抑える役目を担うことになった。

私は頭を抑えることになった。先ず朝の応急措置の包帯を取ると傷口が一見塞がっているように見えた。が、看護婦さんが消毒のためガーゼで傷口をキュツキュツと拭うと傷口がいきなりパックリと大きく開いた。同時に先生が呻きだした。

間も無く若い一人が気分が悪くなり退室。私は一生懸命頭を抑えていたが、油汗なのか先生の頭と顔がヌルヌルし始めるやら、呻き声やらで、情け無くも私もKO

結果は手術は大成功、化膿もせずにやがて杖も不要となり1ヵ月くらいしたら普通に歩行出来るようになった。看護婦さんとK君は立派であった。終始冷静であった。スゴイ日本人もいるなあ、と感心した。


1963年の元旦。現場広場での国旗掲揚。
此の日ばかりは全員が正装して母国を偲んだ。
清々しい早朝であった。

正月は皆広場に勢揃いして新年を祝った。数名いた奥さん連中は此の時とばかり艶やかな和服姿となり、男子も仕舞い込んでいた背広を出して正装した。国旗掲揚に続き君が代を斉唱した。乾季の此の時期の朝は爽やかであった。平和時に外地の青空に翻る日の丸は美しかった。懐かしい母国の全てが化体されていた。

我々日本人と村落の住民とは殆ど接点は無かったが、サイトでは現地のコック、ベアラー(召使)達は総務のマネジメントが良かったこともあり、結構甲斐甲斐しく働いてくれて然したるトラブルも無かった。

プロジェクトが収束に向って行くに従い総務の人達は現地使用人の解雇という嫌な仕事を漸次こなして行った。解雇抵抗も有り「お前の死体がやがてベンガル湾に浮かんでいるだろう。」というような匿名の脅迫書を貰うことも有ったが、幸いに単なる脅かしに済んだ。

サイト内の事務所、工場、食堂等で働く現地の従業員は勤務中でも時間が来ると夫々設けられた場所に行きメッカに向って礼拝をしていた。建設時代、賃上要求で現地従業員の暴動寸前にピストルを暴徒に向けて構え日本人を守り、暴徒を諭して事無きを得た元軍人将校のMr.Fも健在であった。

やがて私の現地着任後約1年経った。その間、遠く人里離れたところで忽然と現れるヒンズー教徒の集落で行われた奇祭に仲間と招かれたり、損害保険の全懸案クレーム決着のため西パキスタンのラホールに飛んだりして何れも思い出に残っているが省略したい。

引き続き此のプロジェクト従事ということは変わらないが、ダッカ市に転勤することになる。