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 日本語教師時代の思い出・7

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NO7

教科書の一例

大学の教科書と日本人教師の役割

中国の大学の教科書はどれを使うか学部であらかじめ決められています。
「精読」は要の授業で週に10時間ぐらいあります。教科書は1年から4年まで「精読1の上、・下」「精読Uの上・下」というふうに8冊ほどのシリーズ本になっています。

教科書はいろいろな大学の出版社から出されており、書店でも市販されています。
中国人の編集した教科書ですから、日本人から見ると、時々おかしい文章や言いまわし、ミスプリントなどがみつかり苦笑することもあります。逆に日本で出版された外国語の教科書も同じことがあると思います。

以前は日中共同でつくられ教科書「標準日本語」というのもありましたが、最近の大学ではあまり使われていないようです。先年北京の新華書店で、イラストが沢山入り大判に生まれ変わった「標準日本語」を見て懐かしく思いました。

新入生の初級文法は「精読1の上」を使って中国人教師が教えます。中国教師陣は日本留学経験者ばかりで、能力の高い教師が揃っています。

まだ日本語の通じない初級の学生には、中国人教師が母語で自分の学習経験を踏まえて教えるのは効率的だと思います。

日本語教師は中国人教師の弱いところ「発音や作文添削」などを補います。
1,2年生を教える日本語教師は「正しい日本語の発音」「日常会話」「作文」「日本概況」「聴解」などを担当することが多く、ネイティブな日本語に慣れさせる努力をします
中国人には、長音、濁音 撥音の発音が難しく、1年生の時に徹底して矯正します。
(私、道子はどの大学でも1,2年生を担当しました)

3,4年生の担当の日本人教師は、「精読」「日本史」「日本文化」「日本文化史」「日本文学」「古典文法」「日本概況」などを教え、卒業論文指導もやらされます。

学生はかなり日本語力が付いてきているので「精読」を日本人が日本語で教えることが多くなります。学生は日本人教師が下手な中国語を使って授業するのを嫌がります。とにかく日本語を聴き、日本語で話したいのです。

院生を持たされる時は授業はかなり専門的なことを教えることになり、大学によってはゼミ形式をとる場合もあります。

また中国人教師の日本語翻訳文の校正や、時には教科書編纂や論文著書の手伝いを頼まれることもあります。(夫、克敏は3,4年生及び院生を担当しました。)

時には茶道や民謡・踊り、日本語劇指導などを頼まれることもありました。 

国立大学の日本語科の学生は2年生の12月日本語能力試験2級を受け、3年生ではクラスの大半が1級試験に挑戦します。そして4年生のほとんど全員が日本語能力試験1級合格証書を手にし、日本語の会話もほぼできるようになって卒業していきます。実に優秀な学生たちだと思います。   

漢字圏ではないタジキスタン、ロシアでは教科書は 主に「みんなの日本語」を使用しました。

私たちはどの国に行っても、学生たちがただの実用的日本語を習得するのではなく、日本の文化や歴史や習慣、日本人の感覚や心情に興味を持つようになることを願いながら学生たちと接してきました。

(道子記)

 

 

その4  (克敏記)

学生の横顔



本科生
91年の時の学生と2回目07年の時の学生とを比べてみるといろいろおもしろいことが分かります。

山東大学は、91年当時から中国の重点大学としてその地位もレベルも高かったことは言うまでもないが、学生の出身地を見てみると圧倒的に両年ともに山東省出身者が多いのです。91年の3年生は20名中遼寧省、吉林省などの東北出身が4名であるのに対し、2年生では39名中東北出身者は5名のほか、内蒙古出身者が2名いました。

山東省出身者は概して素朴純情な気質が多いのですが、東北、内蒙古の学生たちも実に朴訥にして性温厚な学生揃いでした。一人だけ変わった男子学生がいました。滅多に授業に顔を出さないのです。どうして、という私の疑問に、他の学生が「彼は体育の特待生ですからそれでいいんです。」と答えました。実際、彼はいつもグラウンドにいて走ったり跳んだりとレーニングを積んでいました。当時は国立大学にもそういう制度があったのです。

当時はまだ中国全体が発展していない時期でしたから、学生の生活も質素でした。女子の衣類でも、毎日同じ格好で教室にやってくるのでその衣類の色や柄で学生の名前を覚えました。もちろん男性はさらにそれに輪をかけて着たきり雀でした。

09年の学生に比べ、さらに気質は惇撲であったように思います。気持ちの上では余裕があったのでしょう、勉強一図ではなく、休みの日にはよくクラスで遠足をしたりしてその都度私も誘われました。また、三三五五と連れ立って私の部屋を訪ねてきて雑談にふけることも数多くありました。一緒に私の部屋で餃子を作って食べたことも懐かしい思い出です。 


 
1回目赴任
1992年の2年生と記念写真
2回目赴任 2007年の新年祝賀会
日本語学科のスタッフと

左写真の2列目中央黒ベルトの女子学生刑さんは右の写真、左端の女性で15年後の日本語科主任の刑永鳳先生です。

優秀だった刑永鳳さんは日本に留学して学位をとり日本語科の主任教授になっておられました。

夫は15年前学生時の刑さんが書いた日本語の作文を偶然保存していたので彼女に渡ました。彼女は冷や汗ものと言いながらも大感激しました。

右端は下記の李銘敬先生。

                    特別研修班の存在

91年当時、私が受け持ったクラスに「特別研修班」と称するものがありました。これは、中国国内の大学に勤める若手教師の実力向上のための特別プログラムで、その年一年限りで募集されたものです。

人数は7名。勤務大学は、山西大学、貴州大学、武装警察部隊学院、山東大学、北京師範大学、山東医科大学、桂林旅行専科学院からそれぞれ1人、内男性1人でした。

この顔ぶれは、皆それぞれ大学を卒業して3、4年目という新進気鋭の若者達で学力も高く、またやる気も十分でした。

私は彼らに「精読」に授業を持ちましたが、読解力は結構高いのに会話の力がやや不足していると感じ、途中から教室での授業を私の部屋でやることに変更しました。

お茶を飲みお菓子をつまみながら授業の一端を互いに会話することで会話への抵抗感をなくそうというのがねらいでした。この方法は割合によかったようで会話の力も向上してきました。

彼らで困ったことがひとつありました。それは女性6名の気質がそれぞれ際立っていてことあるたびに感情的に対立したりいがみ合うことがあったりしたことです。私とすれば少人数のクラスなのですから和気藹々といきたかったのですが。女の感情の世界は日本も中国も似たところがあると勉強させられました。

今彼らはどこで教鞭を執っているのだろうかと、その後もずっと気になっています。

李銘敬先生のこと


山東大学に李銘敬という先生がいます。彼は今では私の生涯の友です。

 

赴任したての当時の私は、日本語がわかる学生相手の授業では問題ありませんでしたし、買い物などの日常生活も学生が手伝ってくれたり、つたない中国語で何とかこなせましたが、それ以外の、例えば大学の事務方との交渉とか大学外の人たちとの折衝などには学生では間に合わず苦労しました。

そんな折、李さん(親しみを込めて以下こう呼ぶ)と知り合いました。李さんは当時大学を卒業して間もなくの26歳の若手教師、同じ大学の英語教師と結婚したばかりでした。

 

彼は、中国で言う「山東大人」で、背が高い人でしたがその性情は朴訥で繊細、しかも実にまじめな努力家でした。


彼は誰から頼まれたわけでもないのに、そんな私を本当によくサポートしてくれました。

 

当時の大学教師の給料は気の毒なくらい安く、生活は大変でした。

 

彼たちに配給された新居は平屋長屋の職員住宅でしたが、住宅とは名ばかり、ベッドを置けば身動きならない狭い雨漏りのするワンルーム、炊事は薄暗い廊下に据えられた剥きだしのガスコンロひとつ、夜は鼻をつままれてもわからない真っ暗闇の外の共同便所でした。

彼は、そんな生活の中で私をよく昼食に呼んでくれました。献立はご飯に一汁一菜、それを時間のあるほうが作るのです。私はしかし、その質素な食事がどんな豪華な料理よりもおいしくありがたく、涙が出るほどうれしかったのです。

私の山東大学での仕事は一年だけでしたが、彼の向学心高まる一方で、やがて一念発起して大学を休職し日本へ留学しました。彼は早稲田大学院に受け入れられ、今昔物語や仏教説話を中心とした研究に没頭します。
それから数年間、先生の大学の提出書類の為の「日本人保証人」になりました。

 


1997年頃 我が家の夏休み
早稲田大学大学院で研究中の苦労時代の李銘敬先生ご夫妻と

 

学問一途の、どちらかといえば不器用なタイプの彼を見かねて、生まれて間もない息子を親に託して今度は奥さんが来日しました。彼女は、大学教師のプライドを投げ捨て、ホテルのベッドメーキングなどいろいろなアルバイトで経済を支えます。


来日当初の彼女は日本語がほとんどダメでしたが、そういうアルバイトでの交流でめきめき力をつけ、わずか1年で日本語能力試験1級に合格します。そればかりか、生活が少し安定すると、今度は彼女が東京学芸大学英語科を受けてパス、そこで専門の英語に磨きをかける日々を送りました。

李さんの研究は実は大変でした。それまで日本人のその分野の研究は手薄で、自らが切り開かなければひとつとして前進しない困難な研究でした。


苦節10年の歳月が流れて、彼はようやく博士論文の栄誉を得、晴れて文学博士となり、山東大学に帰りました。。一足先に帰国していた奥さんとも再会し、久しぶりに会う息子はもう小学上級生になっていました。

 

2007年現在、山東大学外国語学院副部長及び日本語センター長になられた
 李銘敬先生と済南のお宅で

そんな李さん一家に、私と妻は08年6月再会しました。今度は李先生が私たちを山東大学の教壇に呼んでくれたのです。山東大学に復職して5年経ったころですから、何らかの役職に就いただろうとは思っていました。

会ってびっくり、彼は日本語科の主任を通り越して、外国語学院副部長、日本語センター長という地位に就いていたのです。その間、メールや手紙で何度もやり取りをしたのに、そんなことはおくびにも出しませんでした。李先生とはそんな人なのです。    

 

トピックス


去年李銘敬先生は中国の有名な学術研究賞
「中国宋慶玲基金の孫平化学術賞」を受賞され北京の表彰式に出席されました。


日本国、日本人の皆さんのおかげだと私の家にも感謝のメールが届きました。

http://www.sclf.org/lj/200812/t20081222_11053.htm

 



第五回・孫平化日本学術奨励賞



(No6・2009・4・1記) つづく

 

 

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