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 日本語教師時代の思い出・5

田端道子(090301)

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田端道子(090218)

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山東省の年画は中国3大年画の一つとして有名です。
年画は正月に家の壁に貼る縁起物の版画です。
昔は5
00軒以上の年画工房があったそうです。
山東年画は
色程度の木版刷りで素朴で味があります。

 


その2

レトロな大学・素朴な学生の気質

(克敏記)

山東大学は1901年、北京大学と同じ頃に開校した中国きっての由緒ある大学です。

着任当時すでに90年の月日が経っています。キャンパス全体が古色ならば校舎はさらに古く、冬など零下の風が隙間から入ってくる教室で学生たちは完全防寒スタイルです。

大衣(ダーイー、昔の緑色をした丈の長いコート)に身を包み、耳まで隠れる防寒の帽子に手袋をつけて授業を受けました。学生の手袋からボールペンがぽとりと落ちる光景など、今でも強烈な印象として残っています。もちろん私も同様の格好で授業をしました。

当時はコピーなどなかなかできない頃でしたから、黒板いっぱいにチョークで書くのですが、その黒板たるやベニヤ板に塗料を塗ったようなしろもの、チョークはすぐグズグズになる粗悪品で、書くのも大変ならそれを読み取るのも大変でした。

それでも学生たちはよく勉強しました。戦後を重く引きずる中国では、敵国だった日本の言葉を勉強するとは、という周りの冷たい目、日本兵に殺されたという身内を持つ家庭などの状況がその頃は色濃く残っていました。

そんな状況にあって、学生たちは自分が学ぶ日本語や日本のことを好きになろうとよく努力しました。学生の気質は素朴で純真、何よりも明るい雰囲気でした。全国から集まっていましたが、やはり主体は山東省出身の学生たち、これがこういう雰囲気を醸しだしたのでしょう。

山東大学創立90周年のポスター。
黒い板にチョークで書いてあります。
中国の人は黒板に絵を描くのが上手で

花や風景画を芸術作品といわれるほど上手に描きます。

大学も古ければ学生も素朴、そして私たち外国人教師の宿舎もひと時代以前の貫禄十分な蒼然たる建物でした。ベッドと小さなテレビはありましたが洗濯機などはなく、大きなバス(お湯は出ない)で手洗いでした。

プロパンガスの台所で調理はできましたが、ガスは自弁、なくなると事務所に頼で持って来てもらうまで1日以上待たなければなりませんでした。

乾燥した済南の地では水分の補給は欠かせません。敷地の一角に湯を沸かす設備があって、そこに中国人の列に交じって私たち外国人も並んでポットに湯を汲みました。これが一日の喉を潤すお茶になったのです。

でも、大学側は私たち外国人教師に特別な気配りをしてくれました。その頃、まだ中国人家庭には皆無だったクーラーをつけてくれたこと、冬場には、特別に夜半までボイラーを焚いて暖房を送り込んでくれたことなどです。暖寒の差が極めて激しい済南の地でこれは本当にありがたい心配りでした。

大学老校舎

 

私の授業

 

この大学で、私は2年生の「会話」3年生の「作文」の授業を担当しました。

中国の大学における日本語教育は、大体どこでも主たる教科が「精読」です。それは現在でも変わっていません。その中で文法や単語を教え日本語力を形成することが原則となっています。

中国の日本語科の教師たちはそれを得意とする一方で、「会話」や「作文」の授業は苦手、敬遠されることが多いようです。日本人教師の着任には、待ってました、とばかりそういう教科が回ってきます。

ところが、これらの教科には教科書や参考になるテキストはほとんどありません(最近でこそそれらのテキストは少しずつ出回っていますが)「ご随意にどうぞ」という形なのです。このときの私は、どうにでもやれる、と思ったと同時に、これは結構大変だ、という思いがまずありました。

まず「会話」の授業ですが、前期、後期ともに20週の授業についてカリキュラムを作る必要があります。これは、学生の会話のレベルを見ながらの臨機応変な部分も多いため、常に内容を軌道修正しながら進めなければなりません。

1年間日本語の基礎を勉強してきた2年生、話すことの訓練はほとんどなかったのが実情ですから、本当に挨拶などの基礎の会話から始めました。次第にレベルが上がっていくにつれて、会話の授業の内容も深まっていきます。

その段階では、日本人の生活習慣や日本独特の文化などを理解させる授業も取り入れました。それによって、基礎的な言い回しに応用の利いた表現が加味されることを狙いました。

スピーチも有効な方法でした。大上段に振りかぶりがちな中国人の性癖を廃し、日常身の回りの一見瑣末なことからアプローチさせる、それは日中文化の相違を考えさせる上で大変大変効果的でした。

  

大学構内

春節に私も済南をたずね大学キャンパスを見学しました。

気温はマイナス8℃ぐらい。

自炊の思い出

私は、着任後すぐに自炊を始めました。食器や鍋などは近くの小さな商店で買い集めることができました。米は道端で農民達が計り売りをするものを買いましたが、値段は交渉次第、高くも安くも駆け引きです。米は、洗ってから平らなものに広げて小石を取り除く作業がひと手間、それでも何度石を噛んだことでしょう。

野菜や肉は農民達が集まって露天で売る場所で買いました。全てがコンクリートの床に並べられ、本当の零細売買です。

肉は豚と鶏が主ですが、中国人が5キロ、10キロ単位で買うものを、少量買いの私はいつも怪訝な顔をされたものです。

海から200キロも離れた済南では魚はほとんどありません。冬場など石のように固まった太刀魚がたまに並べばいいほうで、人々は争って買いました。それは痩せて骨ばかりの品でした。

 

パソコン水墨画 道子画

野菜は、夏場こそ青菜やピーマンなど種類が多く並びましたが、冬になるとそれが一変し、ひたすら白菜だけ。たまに大根やネギなどが手に入ると幸せな気分に浸れたものです。

面白いのは、当時小麦粉が配給制だったことです。それも配給切符がなければ買えませんでしたから、外国人の私たちに買う手段はなかったのです。私は、親しくなった中国人から時々少量分けてもらいました。貴重な小麦粉でした。

マントウ(中に何も入らない小麦粉の饅頭)も当然配給切符制。改革開放の緒に就いた頃の山東省はそんな状況でした。こんな買い物を、学生たちはよく手伝ってくれました。買い物の全てが交渉次第という時代でしたから、これは力強い助っ人でした。


街頭のバナナ売り。
日本なら到底売り物にならない真っ黒になったバナナが
売られていてビックリしました。
18年前はスーパーはなく、市場か街頭で食品は売られ
全て計り売りでした。

トピックス

タジクのシェラーリ君さようなら 

2008年11月に来日し、国際交流基金の招きで日本語教師になるため大宮の国際交流センターで研修をうけていた、タジキスタンの教え子シェラーリ君が6ヶ月の研修を修了してこの3月はじめにタジキスタンに帰国します。

彼は本当に「有意義だった、日本は大好きです」と言っていました。
彼はさいたま市国際交流協会主催の外国人日本語スピーチ大会に出て特別賞をもらいました。

我が家での送別会で彼はスピーチを披露したり、お別れの歌を歌ってくれました。
良かったら聴いてください。
YouTube - sera2012

タジク会1
(道子のつれづれ日記)

     http://blog.livedoor.jp/suisaim/archives/51273633.html

タジク会2(道子のつれづれ日記)
     http://blog.livedoor.jp/suisaim/archives/51274124.html

 

 (No5・2009・3・1記) つづく

 

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