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明けましておめでとうございます。
宮本会館日本語教室の新入りボランティア教師、田端道子でございます。
どうぞよろしくお願いいたします。

昨年の1月まで、海外で日本語教師を夫婦で約11年間続けてまいりました。

主として中国の5大学で教鞭を執りましたが、中央アジアのタジキスタンの大学、ロシアのマガダン(シベリア、オホーツク海の最北端)の大学でもそれぞれ1年間、教えてまいりました。

その間延べ1000人近い学生たちと接したことになります。筆舌に尽くせぬ苦労も数多くありましたが、今思うと本当に充実した楽しい日々でした。

その思い出話をこれから月に2回程度のペースで掲載させていただくつもりです。どうぞよろしくお願いいたします。


日本文化を学ぶ<茶道> 国立タジキスタン言語大学にて(2003年)

 

はじめに

なぜ外国の日本語教師になったか
・・・中国への思い・・・

私たち夫婦は、かねてから中国への特別の思いを持ち続けていました。
幼少時より書を学んだ夫は、東京学芸大学の書道科を卒業してすぐ、都立高校の国語・書道の教師になりました。

書を愛する夫の思いは、しだいに中国の大地へと広がっていったのですが、戦後の国交断絶で中国の情報を得る事はもちろん、行くことも叶いませんでした。

1972年日中国交が回復し、6年後の78年に団体での訪中が認められることになって、夫はにわか仕立ての団体旅行の一員となってすぐさま中国に足を入れました。

漢字や書を生み育てた中国の土壌、人心にじかに触れた感激、また日本と比べあまりにも貧しい人々の生活にショックを受けたようです。その頃はまだ青色の人民服の人が多かったようです。

その後夫は、団体や個人のレベルで数次訪中しました。例えばまだ発掘されたばかりで仮小屋に安置された状態の兵馬俑坑に出会い、ゴビ砂漠を縦断しNHKの「シルクロードシリーズ」で放映される直前の敦煌・莫高窟へも足を延ばしました。


書のバイブルとも言われる王羲之の「蘭亭叙」

 

そんな経験を重ねながら教師生活を続けていた夫に、一大転機がやってきました。
50歳の年、東京都の訪中派遣教師プログラムの選考に受かり、1年間山東大学で日本語を教えることになったのです。

夫はかねてより、旅行で垣間見る中国の姿はほんの一面に過ぎない、その土地に腰を下ろして生活してみてはじめて何かが見えてくる、という思いを強めていましたので、この派遣は渡りに舟でした。

勇躍、夫は単身赴任していきました。実際その1年は夫の心境に大きな転機を与えました。夫の心を動かしたのは、大学で学ぶ学生達の真摯な態度は無論のこと、町中の工場で働く若者たちの姿でした。

彼らは、仕事を終えた夜に小学校に集い、テキストも教師もないままの日本語の勉強に精を出していたのでした。そんな中国の若者に日本語を教え、日本と中国の真の交流を目指すことこそこれからの自分の生きかただ、と銘じたと言います。

それから5年後、母親を見送った夫は定年を待たずして退職しました。中国に渡って日本語を教えるためです。

一方私は、1941年に中国の張家口で生まれ4歳まで中国で育ちました。私の父は民間人でしたが現地で兵役にとられ、北支でロシア兵に囲まれて玉砕、戦死しました。そして未だにその骨も拾われていません。

その時、現地招集された父の言葉に従って早めに中国の地を離れた母と子ども3人は、苦難を越えて帰国することができました。もう一歩遅れていたら私たちは残留孤児になっていたことでしょう。

戦後の混乱が収まりはじめて、あらためて中国を振り返ってみた時、私の心にはさまざまな感慨が湧いてくるのでした。

あの戦争で、日本が多くの苦しみを中国の人に負わせたということ、取り残された数多くの日本人の子ども達を中国の人々が育ててくれてたということ、そしていまだにあの中国の大地に父が眠っているということ、母がもう一度父の眠る中国に行きたいと願いながら、果たせぬまま亡くなった事などを思い中国にたいする思いは募る一方でした。

中国のために、微力な私でもなにかお返しができるのでは、という気持ちがすっとありました。そんな中、夫婦共々55歳の年に、「お互いに早期退職して、中国に日本語を教えに行かないか。」という夫が切り出し、私も快諾したのでした。

私の母も夫の母も戦争未亡人で苦労を重ねた人でしたが、二人とも私たちのもとで見送ることができましたし、私たちの3人の子どもも、なんとか自分たちで生きていける年齢に達していました。

経済的な展望を考えると、早期退職して無給同然での海外生活はいささか無謀だと引き止める友人もいましたが、それでもあえて踏み切ったのです。

その時、3人の子どもたちが快く私たちの生き方を支持してくれたのは励みになりました。ただ数年のつもりだった海外生活が、10余年の長きにわたるとはその時思ってもみませんでしたが。

かいつまんでお話しすれば、こんなところが夫婦で中国に渡ったいきさつです。今でこそ驚異的な発展を見せている中国ですが、鄧小平の改革解放路線の端緒だったころとはいえ夫が単身赴任した91年の山東省はまだ本当に貧しい状況でした。

6年後夫婦共々赴任した97年当時の北京でさえ、日常生活や教育活動に不便をきたすことの長はいちいち並べ立てることができないほどです。

また、後年訪れたタジキスタンやロシア・マガダンの地では極限状態の生活を潜り抜け、ややオーバーな表現ですがよくぞ生還した、と振り返って思うほどです。人から見たら、そんな酔狂しなくてもいい苦労をわざわざ買ってまでするの、と笑われそうです。

しかし私たちは、どんな地でもそこに日本語を学ぶ若者がいる限り行って日本語や日本の文化を教えたい、という意気に燃えていました。今にして思えば「教えに行く」などとはおこがましいことに気がつきます。

私たちにとって、教えることよりも各地の人々から学ぶことのいかに多かったことでしょう。それは卑小な私たちにとって大きな財産となったのです。また外国から日本を眺めてみて改めて日本の素晴らしさも日本の欠点も再認識することができました。

 健康的な理由で、昨年1月にやむなくリタイアしましたが、今でも日本語を学んだ学生や各地で知り合った人たちとの交流は絶えません。

次号からは、そんなさまざまな経験談の一端を夫克敏の文も交えてご紹介していきたいと思っています。また7年前の厦門(アモイ)大学の時、私の60歳の時パソコンを習得しましたので、アモイ以降はパソコン画で描いた外国の風景も掲載させていただきます。


ロシア・マガダンの北方国際大学にて


中国・福建省の厦門大学の一年生

 

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